夜行バスが停車すると、僕はカンボジアに来て初めに降り立った街、プノンペンに戻っていました。
早朝のプノンペン、一昨日クルーズしたトンレサップ川の更に下流域の街は、朝日のなか、早くも熱気に包まれていました。
いつものごとく外国人の僕たちにトゥクトゥクドライバーが沢山集まって
夜行バスで疲れきった友人と僕はトゥクトゥクドライバーとあまり交渉する元気もなく、とりあえず僕が宿泊を考えているホテルへ。
友人は仕事があったり、新居に移転するために仮住まいしていた家の鍵が無かったり、仕事に行かなくてはならなかったりで忙しいので、最後の滞在はホテルにしたのでした。
思えばこの数日間、常に友人と一緒に過ごしていたために、僕は英語しか話しておらず、価格交渉のほとんども友人が引き受け、カンボジア人との交流は希薄だったような、サバイブしていないような。
ホテルに到着し、友人は僕を残して、仕事へゆきました。
Golden Gate Hotel というホテルの人と交渉をし、価格を交渉、一泊14ドル、この度で一番宿泊にお金を出しました。シュリムアップでは3.5ドルだったし。
部屋は広く、ベッドも大きかったです。中華系のホテルの様子です。
夜行バスで疲れていた僕は、久しぶりにお湯のシャワーを浴びて、一寝入りをしました。
お昼前になると支度をして出かけ、露店でご飯を買います。
一食、0.75ドル 友達から教わったり旅の間で覚えた簡単なクメール語を使って、ご飯を調達。
この屋台のおっちゃんはふっかけたりはしてきませんでした。
スタジアムまで歩き、しばし食事。
街を知るには歩き回るのが一番なので、食後はただひたすら歩き回りました。
車とバイク、トゥクトゥク、自転車、そして歩行者が入り乱れながら、日差しの中を、人々が動きます。
お土産を買うならということでホテルの従業員に教えられたロシアンプサー(マーケット)まで歩いてゆき、マーケットの中をぐるぐるぐるぐる。
目を付けたお土産をもって、お店の人と価格の交渉をしてゆきます。
この度一番の大盤振る舞い。
他のマーケットもすこしはしごしたあと、日差しと交渉で疲れた僕は夕刻までホテルに戻ってスコールを避け、友人と合流、夕飯とお酒を楽しみに出掛けます。
プノンペンは都市ですが、日本のそれの様に明るくはありません。
暗い通りを歩きながら、明日の予定を交わし、友人と別れました。
翌朝を迎え、ロビーに降りると、友人は自転車を二台もって待っていてくれました。
この日はフェリーに乗って、トンレサップの対岸へ。
フェリー乗り場に向かう途中、いきなりのパンク、出足からの足止めです。
ちなみに、当日の飛行機でシンガポールへと戻ります。
時間はある程度限られています。
メコン川とトンレサップ川の間にあるこの土地は市街からは打って変わって建物という建物がありません。
高床式の住居があり、子供達が半分裸で走り回っています。
住居は外に開け放たれていて、中にはハンモックが下がっています。
川には堤防はなく、水の増減によって、土地の広さはかわります。
舗装されていない道は、自転車を容赦なく痛めつけ、車は土ぼこりを巻き上げながらごうごうと通り過ぎてゆきます(たまに)。
僕たちの乗っている自転車は、中国からやってきたものであろうものが一台。
日本からやってきた物が、一台。
このジャングルの様な湿地帯に点在する電柱には、携帯電話キャリアのポスターが貼ってあります。
なんだか、不思議な感じです。
通信技術と、道路などのインフラとのギャップ。
しかし街や国とは、物質的なものではなく、人の集まりや決まりがそれをなしているのであって、もしかしたら最もスマートな街は人工的なエネルギーを必要としないもので、形状や物資をともなわないのかもしれない。そんな風にもおもいました。
一通り対岸を見て回った僕たちは、街へ戻り、僕は飛行機に乗って、更なる街へ向かうのでした。
こんな。。。
カンボジアは興味深い土地でした。
冒頭にも述べた通り、初めての「発展途上国」でした。
僕は仲の良い友人がいる間にどうしても訪れたいと、2年間思い続け、やっと訪問をかなえました。
友人はイタリア人で現地で暮らし始めて2年、特別外国人として生きるのではなく(もちろん彼は外国人ですが)なるべく現地の人々との交流を持ちながら暮らしています。
そんな彼と一緒にカンボジアをまわった事は、旅行者としてただ観光地をまわるだけよりもよっぽど深度の深いものであったのではないかと思います。
歴史的に存在していた技術や知識が途絶えている感のあるカンボジアは他の東南アジア諸国と比べても少し特殊なのだろうと見て取れ(これはもちろん聞き知ったほかの国の情報と比較してのはなしですが)ました。上海でも見た、物質的な豊かさと貧困が共存している街は、現状の問題よりも、未来への活力と可能性を感じるものでした。
例えば、最後にプノンペンの対岸に渡った時、携帯電話の広告が貼ってある電柱の立つ、ジャングルのような湿地、そこに居住し、ハンモックで暮らす家族と「ハロー!」と外国人を見かけると叫ぶ子供達。
昭和の日本と言われるような(それよりももっと原始的とも言える)風景と現代の技術が並列に同じ空間と時間にありました。
日本は物質的に消費(又は浪費)をしなければ今の物質的に恵まれた国にはなれませんでしたが、技術のある現代において、賢く生きれば、彼らの国は極力(地球規模での)浪費は避けながら、物質だけでない幸せを手に入れていかれるのではないかと、その可能性を楽しみに思いました。
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