しばらくは日本国内に行くべきところが多かったし、また大きくは経済的、時間的理由からも飛び出せ!海外できておりませんでした。
大人になるってそういう事なんですかね。
多分違うとおもうなぁ。
カンボジアには仲の良い友人が住んでいます。
僕はその友人がカンボジアに住んでいる間にどうしても訪ねたいと思っていました。
彼とは僕が大学生時代に交換留学でフィンランドへ行っていたときにその大学で知り合い、それ以来の友人です。
彼は大学時代から、大学を卒業したら、
日本→中国→東南アジアのどこかの国
と、自分の行動をある程度予定しており、確かに計画通り、数年前日本にも1年半ほど住み仕事をして、北京へと渡ってゆきました。
その後、北京での約2年を経て、最終目的地の東南アジアの国をカンボジアとして、今ではプノンペンで仕事を持っています。
僕は彼をどうしても訪ねたかったのと、カンボジア(発展途上と呼ばれる国)を単なる旅行者じゃないかたちで訪れたくて仕方が無く、休みの申請を何度も都合つけさせてもらえなかった1年を経て、やっと安い飛行機チケットと一週間の休みを手に入れて、飛び立ったのでした。
安いチケットは、お盆の期間にしては破格の、しかも日本の航空会社の国際線、シンガポール往復。
シンガポールまで行ってしまえば、アジアの安い航空会社のチケットをインターネットから予約できるので、チケット代の心配はありません。
シンガポールへは過去に二度、仕事で行った事があり、昔からの友人がいたり、つい数ヶ月前に仕事のために移住した友人がいたりと、経由地としてはもってこいでした。
日本から約8時間、シンガポールの朝に到着した僕を待っていたのは移住したての友人でした。
この期間、その友人宅には毎週のように訪問者があり、この日は僕と入れ違いにヨーロッパに経つ他の友人を送るためと、6時間後の飛行機でカンボジアに発つ僕と朝食をとるための理由でチャンギ空港まで来ていてくれたのでした。
友人と朝食を終えて、彼は仕事の為に街へ戻ってゆき、僕は独り飛行機に乗ってカンボジアはプノンペンへと飛び立ちます。
久しぶりに日本語をほとんど使わない生活が待っていると思うと、いろんな意味でドキがムネムネします。
しばらく使用されていなかった僕の英語の脳みそを呼び起こそうとしても、なかなか起きてくれません。
やつは二度寝や三度寝は当たり前の様にかましてくれます。
とはいえ、カンボジアはクメール語、英語の脳みそが起きてくれても、通じるのはメインが友人です。
プノンペンで待っていてくれる友人は、実は日本語がわかる(日本では他の友人と日本語でも会話していた?)ということを噂できいているのですが、僕とはなぜかほとんど英語でしかはなしたことがないのです。
彼はとても現地に馴染むのが、というか、言葉を操るのが上手で、イタリア人ですが、フィンランド時代は留学生の誰よりもフィンランド語のセンスがあり、その前に行っていたというケルンではドイツ語がわかるように、英語が上手なのは高校時代にアメリカへ行っていたから、日本へ来てからは、日本語と漢字の猛勉強、中国でもしかり、そして新しい土地、カンボジアでも同様に、僕を迎えてくれた彼はクメール語を使用して、トゥクトゥクドライバーへちゃちゃっと行き先を伝えました。
そう、彼はわざわざプノンペンの空港まで迎えにきてくれていました。
小さな空港、とはいえ、想像していたよりは大きめの空港の出口をでると、顔見りゃわかるのに、HAMANAのプラカードを持った友人が立っていました。
(僕は空港が小さいと聞いて、ドイツのウェッツェにあったイギリス軍が撤退したあとの小さな軍事空港を民間化した空港の規模を想像していました。)
お互いに「にやり」と笑い合い、そのまま空港の外へ。
彼は乗ってきたトゥクトゥクを外へ待たせてあり、上記したとおり、クメール語でプノンペン市内の彼の家へと走る指示をしました。
なにかついでるのー!?
なにのってるのー!?
カンンボジアではUSドルが主に流通しています。
カンボジア固有のお金もあるのですが、通過信用度は圧倒的にドルが国内で高く、USドルを持っていれば生活できます。
日本円でも喜ばれるようです。
自国の通過への信用度が低いみたいです。
僕にとってカンボジアといえば、戦争でした。
子供の頃、テレビからリアルタイムで知る戦争はカンボジアとベトナム。
戦争が起こっていた国は、他にもあったかもしれないし、その後も各地で内戦や交戦が世界で止みませんが、子供のころの記憶のつよい僕には“戦争=カンボジア・ベトナム”でした。
そんなついこの間まで混沌としていた、まだ1ドル365円であった時代の日本の様なのかもしれません。
プノンペンの友人の自宅につくと、すぐに外へ出て一通り友人の生活圏を案内してもらいながら、今晩出発のシェムリアップ(アンコールワトなどの遺跡のある街)への夜行バスのチケットを予約します。
ここの若奥さんが、僕のかぶっていた帽子(参照:#6『西沢渓谷へ探検隊はゆく』)をひどく気に入り、しきりに「それが欲しい、それが欲しい」と言っていました。
一度だけかぶらせてあげました。
ただし日本で買ったこの帽子、彼らの月収のおそらく1/3を奪う価格をしています。
家賃級の帽子をあげる訳にわゆきません。。。
彼女はしかしながらどーしてもこの帽子が気に入ったらしく、僕が帰ったあとも店に行くとしきりに友人に聞くようです、あの帽子はどこで買えるのかと。
カンボジアで生産したら良いかもしれない。
そして、ご飯。
友人が前に住んでいた場所から近く、クメール人(カンボジア人)の女の子たちがキャッキャと良いながらいろいろと盛り合わせてくれます。
彼らにはほとんど英語が通じないので、友人がクメール語で「ニャム〜、、、」と指差し確認でオカズを選んでゆきます。
ニャム=食べる、飲む
の意味らしく、僕も多用しました。
スタジアム(見晴らしのよい、裏にプールがある場所)
再度友人宅にもどり、友人は一度仕事の打ち合わせの為にでかけてゆきました。
その間僕は出掛ける事も無く、取り合えず露店でココナッツのジュースを買ってきて飲み、シャワーを浴び、友人宅で一休み。
友人が戻るとご飯を食べに街へ。
そして移動へと備えます
。
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そう、今晩はバス車中泊、、、
六時間の悪路をバスはひた走り、シェムリアップへと向かうのでした。
第二話(シェムリアップ編)へつづく
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