久しぶりのハマナくんとの旅だった。思い返すと、いちばん最初の二人旅は北海道にフェリーで行く旅だった。北海道の旅中はずっとどこに行っても雑魚寝で過ごした。当時はまだ20代だったので、そんな過酷な旅も全然平気だった。
今回の旅も思えばなかなか過酷で、ツェルトに蚊が侵入して朝まで格闘したり、バイク移動は長かったり、また睡眠不足との戦いをしていた。
30代くらいの国内旅行というと、良い旅館に泊まって、美味しいもの食べて、温泉で疲れを癒して帰る、みたいなことを想像する。
どこにでもの旅はそういう旅がほぼない。二人で旅しているだけだが人に会うことも多い。
僕は何が自分を自由にしてくれるのかたまに考える。人と知り合って、たくさん話すことはその中の一つでもある。物事をこういうものなんだと僕が思い込んでいることを、人の考えを訊くことで打ち破れることがあるからだ。
どこにでもの旅自体も僕一人では決してしない旅なので自由を見つけることに役立っていると思う。
物の見方や価値観はどんどん変わっていく。それでいいのだと思う。もちろん性根というか信念はさほど変わらないかも知れない。捉われないことは僕にとっての自由でもある。けれど自由は楽なものではなく、けっこう過酷に思う。自分の価値観が何度も揺らごうとも、伊勢神宮の老大樹のように根を強く張っていなければ倒れてしまうからだ。途中何の話なのか脱線しましたが、伊勢神宮に話がつながって良かった。おあとがよろしいようで。
終
ぼくは家具をデザイン、設計図をかくことで生きています。
つまり、家具デザインのプロである訳です。
一流かどうか、それは人が出来上がったものから判断することであり、本当に人や世の中の役に立てているかどうか、ここで僕にはわかりません。そうありたいとは思っていますが。
今回もバイクの総走行距離だけでも900kmと移動の多いたびでしたが、バイクを走らせ、船に揺られるなかで近頃感じている事について考えていました。
「作品」ということばについてです。
デザイナーや建築家の中には、自分のデザインしたもの、設計した建物を「作品」と呼ぶ人たちが多数存在します。僕はそれにはすごく否定的な意見をもっていた訳です。
人が快適を求めて住むはずの家、人が便利を求めて手に取るはずの道具。
それらをあたかも我が物かのように「作品」だなんておこがましいと、家も道具もそこに住む人、それを使う人が喜ぶ為のものであって、作り手の勝手や発案者のエゴで出来上がる物では決して無い。と。
しかし近頃この「作品」にたいして、見方が変わってきていました。
これから出来上がって来る物、事を自分の「作品」だということには、大きな人格的責任が伴うと感じたのです。それは人の為のものを自分の側に受け入れる大きなプレッシャーを伴う、とても大切なことなのではないのかと。つまり「作品」として自分を当事者とする事が仮に良い形ででき、そのプレッシャーを解体して行く、乗り越えて行く。それをする事でよりよい物が出来上がるのかもしれないと、考えるにいたっています。
今現在であっても僕自身が作り出す事に関して責任をもってやってきたつもりですし自負もありますが、自分のちからや検討がまだまだだと打ちのめされたり、それを受けてもっとやれたはず、もっとできたはず、という自己努力の足りなさを悔やむことが少なくありません。
これはなかなか受け取りかたの難しいもので、この「作品」否定の一山を越えているかどうか、でまったく話が変わってきます。これは全く言葉遊びの上での話ですが、意識はそうあっていいんだなという境地にバイクの上でなりました。
イワガキくんと旅に出ると、彼にあって僕にないもの、僕にあって彼にないもの、だけでなく、彼といると僕にあるものなんかにも気がつく事がよくあります。
ぼくたちは互いに作品を作り続けています。
「作品」という言葉への見方が一つ成長した事を受けて、先日見た動画の一言を思い出しました。
you are what you do, not what you say....
あなた自身は何をしたかであって、何をいったかではない
カナダ人の少女の有名なスピーチの末尾、父に言われた言葉として紹介していました。
これだけ言葉について書いてきて、結局そこかという始末ですが、すごく心掴まれました。
また次の旅も生で行きたいと思っています。
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