ぼくは家具をデザイン、設計図をかくことで生きています。
つまり、家具デザインのプロである訳です。
一流かどうか、それは人が出来上がったものから判断することであり、本当に人や世の中の役に立てているかどうか、ここで僕にはわかりません。そうありたいとは思っていますが。
今回もバイクの総走行距離だけでも900kmと移動の多いたびでしたが、バイクを走らせ、船に揺られるなかで近頃感じている事について考えていました。
「作品」ということばについてです。
デザイナーや建築家の中には、自分のデザインしたもの、設計した建物を「作品」と呼ぶ人たちが多数存在します。僕はそれにはすごく否定的な意見をもっていた訳です。
人が快適を求めて住むはずの家、人が便利を求めて手に取るはずの道具。
それらをあたかも我が物かのように「作品」だなんておこがましいと、家も道具もそこに住む人、それを使う人が喜ぶ為のものであって、作り手の勝手や発案者のエゴで出来上がる物では決して無い。と。
しかし近頃この「作品」にたいして、見方が変わってきていました。
これから出来上がって来る物、事を自分の「作品」だということには、大きな人格的責任が伴うと感じたのです。それは人の為のものを自分の側に受け入れる大きなプレッシャーを伴う、とても大切なことなのではないのかと。つまり「作品」として自分を当事者とする事が仮に良い形ででき、そのプレッシャーを解体して行く、乗り越えて行く。それをする事でよりよい物が出来上がるのかもしれないと、考えるにいたっています。
今現在であっても僕自身が作り出す事に関して責任をもってやってきたつもりですし自負もありますが、自分のちからや検討がまだまだだと打ちのめされたり、それを受けてもっとやれたはず、もっとできたはず、という自己努力の足りなさを悔やむことが少なくありません。
これはなかなか受け取りかたの難しいもので、この「作品」否定の一山を越えているかどうか、でまったく話が変わってきます。これは全く言葉遊びの上での話ですが、意識はそうあっていいんだなという境地にバイクの上でなりました。
イワガキくんと旅に出ると、彼にあって僕にないもの、僕にあって彼にないもの、だけでなく、彼といると僕にあるものなんかにも気がつく事がよくあります。
ぼくたちは互いに作品を作り続けています。
「作品」という言葉への見方が一つ成長した事を受けて、先日見た動画の一言を思い出しました。
you are what you do, not what you say....
あなた自身は何をしたかであって、何をいったかではない
カナダ人の少女の有名なスピーチの末尾、父に言われた言葉として紹介していました。
これだけ言葉について書いてきて、結局そこかという始末ですが、すごく心掴まれました。
また次の旅も生で行きたいと思っています。
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