「知っている」というのは、僕には大変にハードルの高い言葉です。
このどこにでもいったはなしの旅の途中、僕は「知っている」ことについて書いたことがある気がします。
ある時期、多分どこにでもいったはなしを始めたころから、僕は少し自分のステージが変わったように感じています。
振り返ると、ですが。
ものごとを知っているというのは、ニュースや知識を得ること、情報に触れるということとは、少し、でも大きく違います。
僕の話している「知っている」は体得に近いものがあります。
人の気持ちを察することはできても、同じ気持ちにはなれないものです。
ニュースでどんな情報を得ても、それが真実かどうかはまたべつであるようなもので。
いろんな技術の発達で、僕たちは遠くのものごとを情報化し、見聞することが容易になりました。
だから、テレビでみたことを知った気になるのですが、それは知った「気」に過ぎないのです。
途上にあるので偉そうなことはいえませんが、観察すること、そこから鍛錬すること、それ抜きにはものごと、特に「コト」を知ることはできないものです。
百聞は一見に如かずといいますが、一見は百練(体験)に如かず、といったところでしょうか。
道具を創るという仕事の一端を担い、作り手に多く囲まれていると、知っている「気」がまかり通りません。
刃物を研ぐ感覚、力加減、玉子焼きを焼く具合、リズム、蕎麦を打つ手際、感触。
触って練らなければ得られない、知ることのできない事象に世の中は溢れています。
僕はオイルフィニッシュをするワークショップでそんな「触らないとわからない」をいろいろな人と体験したくて、催しています。
派手さには少しかけるワークショップかもしれませんが、一緒にみなさんとその感覚を共有することで、僕も学び続けることができます。
タイヨウのしたでのワークショップはまだまだ募集中です。
Recent Comments