近鉄奈良駅前で柿の葉寿司を購入し、バスに乗って東大寺へやってきました。
お腹の空いている僕は、鹿に見つかる暇もなく、6個の寿司をたいらげてしまうのでした。
ごつそうさまでした。
鎌倉時代に作られた、金剛力士像。
奈良から戻るのに予定外に時間を使ったため、伏見稲荷大社へ行くのをやめたのですが、なんだかんだ7時まで京都にいるとちょっと時間を無駄にしてしまうため、パタパタと予定を変更しました。
まずは新幹線のチケットを5時半に変え、一時間の出発にしました。それから三条寺町まで歩いて三十分、お土産の小豆せんべいを購入。
ここの小豆せんべいは、とある以前仕事で関わっていた家具屋さんの職人さんにお土産ならここで買って来てくれと頼まれて買ったのですが、美味しくて、それ以来京都のお土産はそれを買う様になったものです。
残り三十分あるかないかの状態で、市役所の近くから、京都駅へ行き、コインロッカーの荷物をとって、新幹線に乗り込むには結構な滑り込みです。
地下鉄の乗り換え時間や人の混み合い具合で乗り遅れるかもしれないところ、最後の猛ダッシュで、今は新幹線の中です。
そういえばこの旅、始まりもそんな感じでした、癖なのでしょうか。
戻りました、東京。
まあ、これからさいたまに移動なのですが。旅の始めに、技術は尊重されるべきではなくどう使うかが重要だと僕は言った。
この旅で出会った国産箸に携わる人々は皆、自分達の作っているモノを語るときはとても嬉しそうで、熱心で、そして少し照れくさそうだった。
品質が高いのは、技術という言葉で括るには乱暴すぎるほどで、素材に対する丁寧さゆえに、その品質は存在していた。
安くて簡便なものほど、ついつい節約を考えると手が伸ばしやすいのだけど、よくよく考えると、安いというのはそれなりに理由がある。それは外国の安い労働力を使った大量生産品であったり、品質の失われたものであったりする。なにより永く愛せるものではなかったりすることが一番残念だ。
商品は、一つ一つがお客様に愛されるために産声をあげているはずなのに、人類は金太郎飴のような大量生産品に囲まれ、いつしか有限な天然資源を無限に感じるようになったのだと思う。
丁寧なモノへの愛情のある技術は、やはり尊重すべきなのだと僕は思った。どう使うかが重要であるし、それよりもそういった技術をどう守り、永く愛せるモノで世界が満たされるのかが、人類が有限な天然資源を有限に感じられる意識を取り戻す鍵ではないかと僕は思う。そしてそれはデザインを生業にしている者の宿命でもある。
僕はモノを作り出す事に関わるデザイナー、また一人の地球の一員として、常に資源や循環の事を考えています。それはまだ学生の頃、誰にも教えてもらえない、デザインという仕事の事を現実的に考え始めた頃からの、僕の命題のような物です。
デザイナーは多かれ少なかれ、絶えずその職種故に、考え出す事の矛盾とジレンマを相手に闘っています。その闘いは勝負ではありませんので終わりなど無いのです。
生きていくためには沢山のデザインをしなくては、間に合わない、だけれどそれだといらないものまで沢山作らなくては、やはり自分が生きていくに足りる資金や待遇は得られない、そして経験も。
だけど、そういう仕事ばかりしていては、その仕事自体ができない世界になってしまうかもしれない。
そんなジレンマを抱え、
「そもそも自分はデザイナーとしてやってゆくべきなのか、やってゆかれるのか。」
という、どんな仕事の人も殆どがいたるであるであろう疑問を持つ訳です。
そして僕がこれまでで出している答えというののひとつに、
資源を循環させてゆく、人間の営みを他の生物を含めた世界全体の自然な形に組み込んでゆかれる様にするための仕事をするという事があります。
これはなかなか、簡潔に説明するのが難しいので、略してしまいますが、
要は循環を促すためにデザインができる事する訳です。
吉野の山へいったのはそのできる事を確かめにいくため。
そんなことなのでした。
吉野で出会った人達は正直で賢く、常に現実を見ている、そんな仕事の魅力、ものづくりの魅力、生きる魅力に溢れた優しい人達でした。
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