猫は感覚的に生きているんじゃないかと僕は思っている。
それに比べて人間が感覚的な判断だけで生きていくのは到底、難しい。社会は相対的なコミュニティなので、どうしても利害が生じてくる。こうした方が良いのではないかと言う肌で感じる判断があったとしても、他人や共同体を説得できる論理がなければ、判断は行動として痕跡を残さない。経済だって動かない。
伊那谷で「桜守」という桜が弱らないように見守り育てる仕事をしている、かずきくんと出会った。
桜の時期になるとこの地域にある何万という桜の木を観に30万人近い人々がやって来るという。「桜守」僕はそんな仕事があるとは知らないでいた。自然を守ろうとよく耳にするが、自然て何だろうか。野生のままの手つかずのままにしておくことが自然を守るということでは決してないと思う。人間という生物がいるこの環境が、今のの自然であるのだから、共存していくことが自然を守るということではないかと思う。
3.11の震災で原発はメルトダウンし、放射能が外へと流れ出た。現状なにも解決策を示されているように思えない。原子力を扱うことが間違いであったかどうかの議論はさておき、原子力が廃棄される時、どうやってそのゴミと自然を共存させる計画がこの日本であったのかが問題なのではないだろうか。しかし、これはもう既に過去のことなのだ。僕らはこうして未来を生きている。未来を守るために何が出来るかが問題なのだ。
自然を守るということは、イコール人間の未来を守ることだ。自然と人間は相対的なコミュニティなので、自然と対話するには、言葉ではなく、もっと人の感覚を基準に判断して良いと僕は思う。この赤い夕日が沈むところをもっと観ていたい、桜色に染まる山々の美しさ、これらは感覚に他ならない。美しいと感じるのに、決して言葉や論理は関係していない。感覚をもっと信じて人は判断を下して行動するべきで、やはり論理は関係ない、まして利権など何処にも存在するべきじゃない。
自然を守っているのは人間なのだ。現実的な問題として、自然とより近い地域産業が衰退すれば自然を守る人間がいなくなる。伊那谷にも使われていない古民家や田んぼが数多くあった。人間が自然から遠のくほど、当たり前のことだが人間は自然を希薄化してしまう。観光で行くところ程度の認識になってしまう。自然環境を守るということは、そういった活動をしている団体に寄付でもすれば誰かが何かをしてくれるのかと誤解するようにさえなる。
自然を身近に感じ、その近くで生活を営むこと、また営むための仕事があること、収入があること、その地域に住むことに喜びがあること、自然との暮らしをもっと愛すること。大きな問題は小さな問題をひとつひとつ丁寧に解決していくことで解いていくしかない。自然と共存することは、僕ら自身を守っていくことでもあるのだから。
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